読書会よろず小屋3月の例会は、3月28日(土)にルノアール大久保店マイスペース会議室で行なわれました。13名もの方々が参加され、にぎやかに議論をしました。
今回のテキストは吉川満浩『理不尽な進化』(朝日出版社)
レポーターから丁寧なレジュメに基づいた要約の説明があり、それをもとに議論をしました。以下に、論点を紹介します(議論が多岐にわたり、書き留めきれなかった論点が多々あるので以下のものはごく一部です)。
- そもそも「優勝劣敗」の枠で考えてしまいたくなるのはなぜだろう。
→環境に適応して、遺伝子をより多く複製していくことを「優秀」と呼ぶならば、より多様な環境に適応できるメタ的な優秀さという視点があってもいいはず。
→実際、変化する能力や、柔軟さは、近年の「優秀」さのひとつのテンプレートになっているのではないか。
→メタ的な優秀さを、繁栄期間の長さに翻訳すると、例えば、細菌類は非常に優秀ということになるが、どうか。
- 獲得形質が遺伝しない、という話はどこまで常識か。
→実は、教科書で習っていない人(生物を選択しなかった人?)も多いのでは。
→世界史(の中の文化史の部分)で習う?
→獲得形質の遺伝と解釈できる例外的な事例も実は報告されているのではないか。
→全体的に進化に関わる用語や概念はどこまで常識と言っていいのか、また常識と科学的な知見との距離はどの程度になっているのか、気になる。
- ライプニッツの完全な世界に関する議論は、より悪いものを仮定した上での、それよりはましなのは神のおかげ、という話。
- 説明と理解の部分は、なかなか飲み込みにくい。
→とてもおもしろいと同時にとても咀嚼しにくい。
→「理解」の中に、物語化する営みと物語化に抗する(その限りで)トラウマ的な出来事への対応という二つの異質な要素がどちらも含まれてしまっているように思う。
→「理解」が「説明」に対する残余カテゴリーになってしまっている気がする。
→ここの飲み込みにくさが「理不尽さ」という言葉をどのように受け止めればよいのか、いくぶんの躊躇を生むように感じる。
- 唯物史観は理解か説明か?
→歴史叙述の哲学の中では、説明は論理実証主義、理解は物語叙述と振り分けられていたりした。
→ダントの歴史叙述=物語論は、唯物史観(マルクス主義的歴史観)への批判として提起されていたはず。
→だが唯物史観を世界観として受け止める態度のもとでは、それはある種の「理解」としても機能しそう。
関連文献
1993年12月の例会で取り上げたテキスト。リチャード・ドーキンスの「正しさ」を徹底させることで、意外な方向へと(ある意味ではドーキンスを超えて)議論を展開させていくあたり、今回のテキストにも通じるところがあるような気がします。
もうひとつ。真木悠介(見田宗介)さんと大澤真幸さんとの対談。『自我の起原』をめぐる対談も収録されていて、今読んでもおもしろいです。
次回例会は、4月25日(土)18時より、ルノアール大久保店マイスペース会議室で行ないます。ご案内は
こちら。